寄り道、回り道、迷い道
VAL GALDENA ボルツァーノの北。
3月に入ってさわやかに晴れた日は2日間ほどだけ。
まるで、梅雨状態。
今年に限っては、毎日雨で、新芽というよりも、苔むす3月というほうがふさわしい。
今日は日曜日。
テレビでは、新しい法王がバチカンではじめての日曜日のミサを中継している。
日本のニュースにも流れているかもしれないけれど、今度の新しい法王は貧しい人のための法王と言われている。
だから名前も清貧のフランチェスコからとったとされる。
彼がコンクラーベで選ばれて、最初の挨拶をするときに
『金の十字架はいりません。私の鉄の十字架でよいのです。』
白いパパユニフォームも、新しいものを作るのではなくて、前法王のものをリフォームしてほしいと希望されたそうだ。
私個人としては非常によい!と思う。
今日彼はバチカンのミサの後、パパユニフォームではなく、普通の法衣で街の小さな教会のミサに行き、みずから普通のミサを行った。
すてきぃ!
まるで水戸黄門。(^_^)
その普通さが、今まで欠けていたことなんだと思う。
カトリックに限らず、どんな宗教でも、宗教の長となる人は、王様ではないのだから、億万長者のような暮らしをするのは本来の姿ではないと思う。
まあ、生まれた時からそういう暮らしなのではないから、ひとの気持ちや喜びや苦しみがわからないというのではないと思うが、人々から集められたお金が豪華な法衣や装飾品に使われるより、宗教としては、行き届かないところに少しでも届くよう、努力するのが本当の姿だと思う。
わたしは神さまはいるかもしれないと思うし、それは、仙人のように白いひげを生やした人間の姿でいるのではなく、この世界が、宇宙が、私自身が今日、存在しているという奇跡が神様であるかもしれないと思うのであって、なにかこれといった宗教を信じているのではない。
宗教を信じている人たちは尊重するが、宗教というのはしょせん人間が作ったっもので、神さまが作ったものじゃない。
これは食べちゃダメだとか、
こうしないとダメだとか、
いろんな条件付けは、しょせん、人間がその時の都合によってやったもので、神さまが、『ブタは食べてはいけません。』
とか、『輸血はしてはいけません。』とかいったのではないと思う。
それはすべて、人間の誰かが言ったこと。
それどころか、最近の宗教か、宗教もどきというのは
これをやれば、あなたは幸運に恵まれ、豊かになる、といううたい文句が多くて、ありがとう、という感謝の気持ちよりも、神頼み、仏頼みで、お願い事をするばかり。
まあ、それも神さまの仕事と言えばそうなのかもしれないけれど…
イタリアにも『道しるべ』を教えてくれようという人たちがいて、ときどき我が家のインターホンを押す。
ちょっと日本語も話すとてもかわいい女の子で、彼らはいつも2人一組でやってくる。
わたしは
『寄り道、回り道、そのうえ迷子になるのが好きなので、道しるべはいらないのよ。それでもよかったら寄って行ってちょうだい。』
といってリビングに座ってもらう。
その可愛い彼女は、一緒に回るパートナーが変わるたびに、我が家のインターホンを押す。
同じイタリア人だったり、コロンビア人だったり、いろいろ・・・
なんだか、今となっては、布教が目的で来るのか、布教は理由づけで、ときどき顔を見に来たいだけなのか、どちらが目的なのかはわからなくなってきたけれど、それは、それでいいと思っている。
彼女も、わたしが迷い道を楽しんでるのをわかって来たんだろう。
宗教のいいところは、国や、民族の壁を越えて、もう一つのつながりを与えてくれるということだろうか。
音楽、みたいなもんですね。
いいメロディを奏でてほしいな。
わたしはそういう理解をしている。