ね こ ろ ぐ

イヌのココロを持ったネコ。イタリア暮らし。ドラマチックな毎日をつづっています。

お金をあげたからって解決しない・・・

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ある日、バスの中で見た光景。

10歳前後のジプシーの子供が2人袋に入ったスナックを食べていた。兄弟かもしれない。

半分ぐらい食べたのだろうか、もういらないと思ったのだろうか、何の抵抗もなく、そのままぽんとバスの床に捨てた。

彼らは、お金をめぐんでもらったり、または盗んだりして彼らの生計を立てるのが彼らの日常で、そのスナック菓子もいいほうに考えれば買ったのかもしれないし、誰かにもらったのかもしれない。悪く考えれば、盗んだのかもしれない。

決して豊かな暮らしではないはずなのに、食べ物を大事にしようとか、その場所に捨てたらどうなるとか、私たちなら当たり前と思える考えが、彼らの脳裏をかすめた様子もない。

後ろを振り返ることもなく、2人とも次にバスが止まった停留所で降りて行った。

その時、私は『無知』というのはこういうことを言うんだと思った。

罪のないことを罪と知らずにする『無垢』とは違う、明らかに『無知』。

彼らのそばにいる大人たちに食べ物や人をうやまうことを教えるキャパのある人がいないんだ…またおなかがすくから残しておく、という考えもない。1時間後の将来を考えることもしない。ほしくなったら、小銭があれば買うか、また盗めばいい。モノはいつも彼らの周りにふんだんにある。

彼らとて、生まれたくてジプシーの子供に生まれてきたわけじゃない。

ただ、そこに生まれただけ。

生きるために、物乞いすることや、盗むことは覚えるが、してもいいことやいけないこと、人をうやまうことや、ものを大事にすることは学ばない。

イタリアでは義務教育の年齢の間はおそらく住民票もない彼らも学校に来てもいいことになっているけれど、学校が、そういう子供たちのために支給するノートやペンなども、持っては帰るが、そのあと持ってくることはないんだと教員を務める知人が言っていた。

当然、学校に通うことは続かない。

おそらく友達を見つけることも簡単じゃない。

そんなことは不可能だ、自分たちはほかの子供たちとは違う!

 

ある日、テレビを見ていたらこんなシーンがあった。

ジャーナリストがジプシーの子供たちに将来何になりたいかという質問をしている。10歳くらいだろうか、ひとりのジプシーの少年はこう答えた。

『普通のイタリア人の子供になりたい。』と。